前回の大久保の姓に味を占めて、自分ステータスの確認として、
生年月日や生まれ年、生まれた月日が同じ人を調べてみた。
今回は長くなりすぎて読みづらくないようにリンクと抜粋で。
1976年生まれの人々 - ストローワラの情報交差点
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/year/birth_1976.htm
同じ年に生まれた人で オダギリジョーさんがいる。
なんか、もっと自分の人生に対して頑張ろうと思った。
ヤナギブソンさんもいる。
もう少し肩の力を抜いてもいいのかと思った。
全く同じ生年月日の人は2人。
1976/09/25 白鳥 マイカ (しらとり・まいか) 【シンガー・ソングライター】 〔東京都〕
1976/09/25 吉沢 梨絵 (よしざわ・りえ) 【女優】 〔東京都〕
なんだか、ちょっぴり親近感。
月日だけが同じ人も結構いる。
誕生日(生まれた日)が9月25日の人々 - ストローワラの情報交差点
http://www.d4.dion.ne.jp/~warapon/data00/birth-0925.htm
魯迅さんとか同じ日に生まれたのかと思うと勇気が湧いてきますね。
アジャコングさんも。
リサ・ステッグマイヤーさんとか懐かしい…
浅田 真央 さんも同じなのか。
武士、感激。
皆さんはどんな人が一緒ですか?
2010年12月27日月曜日
大久保の姓
自分の苗字や家系を考えたことがなく、どのような人が先祖にいたのか興味が湧きました。
ただ、手元に家系図があるという訳ではないので、「大久保」という姓の人をkotobank.jpというサイトで調べてみました。
以下はその抜粋。(長いです。
大久保長安【おおくぼ・ながやす】
生年: 天文14 (1545)
没年: 慶長18.4.25 (1613.6.13)
江戸前期の奉行,代官頭。通称藤十郎,十兵衛,慶長8(1603)年石見守叙任。武田信玄に仕えた猿楽師大蔵大夫金春七郎喜然の次男に生まれ,信玄に登用され土屋直村から土屋姓を授かり,財政や農村支配に当たる。天正10(1582)年武田氏滅亡ののち徳川家康に用いられ,大久保忠隣の庇護を受けて大久保十兵衛と改称。家康の関東入部後代官頭として武蔵国八王子に陣屋を構え,伊奈忠次と並んで直轄地支配,知行割,検地などに活躍した。関ケ原の戦では秀忠軍の先鋒として木曾路をのぼり,木曾遺臣山村良勝,千村良重らの起用を進言,木曾の森林資源と運材河川の利権を確保した。戦後直ちに石見大森銀山を支配,美濃代官として美濃一国の欠所を支配した。慶長6年彦坂元正と共に東海道,中山道の伝馬制を定め,伊奈忠次と関東諸国の検地を奉行,甲州総代官,大津町奉行となり,伏見銀座の開設にかかわり,とりわけ石見,佐渡鉱山の増産に実績を挙げた。幕府が成立すると「所務奉行」(勘定奉行的地位)につき,家康の駿府移転後もその直轄地を支配,慶長10年代に大和,美濃の国奉行を兼ねて強大な権限を持ち,駿府城再建工事,丹波篠山城,亀山城などの普請にかかわり,建築用材輸送と内陸舟運路の開発に尽力した。18年没後,生前の不正のかどで摘発され,男子は切腹,一族や下代らは処罰され,長男の舅信濃深志城主石川康長も改易された。
(大野瑞男)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保忠隣【おおくぼ・ただちか】
生年: 天文22 (1553)
没年: 寛永5.6.27 (1628.7.28)
江戸幕府創業期の重臣。大久保忠世の子として三河国上和田郷(愛知県岡崎市)に生まれる。幼名千丸,通称新十郎。永禄6(1563)年徳川家康の近習に登用され,歴戦に参加し奉行職となる。文禄2(1593)年徳川秀忠に付属して家老,翌年家督を継ぎ相模小田原6万5000石を領し,慶長5(1600)年相模守に任官,10年秀忠が将軍に就くと老中となり権勢を振るった。19年正月上洛中突如改易に処せられた。その理由は養女を山口重信に嫁がせたとき家康,秀忠に無許可の私婚によるというが,実は本多正信との不和が原因である。不和の発端は慶長5年上田城攻撃に忠隣の家来が抜けがけの働きをし,これを正信が処罰したからといわれ,家康の後嗣に忠隣は秀忠を推し,正信は秀康を支持し対立,17年3月正信の子正純家臣の岡本大八事件を契機とする忠隣と正純の政争も原因である。この事件を裁いたのが大久保長安であり,18年の大久保長安事件に関連して馬場八左衛門が忠隣の謀反を密告し,正信が取り上げて家康をそそのかしたといわれる。忠隣の謀反は無実の讒言に過ぎず,家康がこれを信じ,弁解も容れられないことから改易になった。譜代武功派の正信に対する不満が忠隣に代表され,このため本多父子の標的になったものであろう。
(大野瑞男)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保利通【おおくぼ・としみち】
1830-1878幕末-明治時代の政治家。
文政13年8月10日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。島津久光に信任され小納戸役となる。西郷隆盛,岩倉具視(ともみ)とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。木戸孝允(たかよし)らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。明治11年5月14日東京紀尾井(きおい)坂で石川県士族島田一良(いちろう)らに暗殺された。49歳。初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)
出典:講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
大久保要【おおくぼ・かなめ】
生年: 寛政10 (1798)
没年: 安政6.12.13 (1860.1.5)
幕末の土浦藩(茨城県)藩士。幼くして父母に別れ,祖父に育てられた。江戸に遊学し,帰藩ののち藩の要路に加わる。天保8(1837)年藩校郁文館が新設され館頭,嘉永3(1850)年藩主土屋寅直が大坂城代に任命され,公用人として随従。安政1(1854)年,ロシア船の大坂来航に際してはこれとの折衝に当たり去らせた。尊王派の志士とみられていて,同5年5月大坂に潜行して来た大原重徳と面談。同年8月戊午の密勅を内達され,有馬新七の訪問を受ける。幕府の嫌疑を受け,同6年10月永押込に処せられ,土浦に病没した。
(井上勲)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保忠寛【おおくぼ ただひろ】
政治家。通称金之助・三市郎・志摩守・伊勢守・右近将監・越中守、初名は忠正、号は一翁・石泉・桜園。忠向の子。江戸生。幕臣として勝海舟と共に幕政の運営にあたる。また議会制を主張した先覚者としても著名。駿府町奉行・側用取次・若年寄・静岡県知事・東京府知事・元老院議官等を歴任した。詩歌集に『桜園集』がある。明治21年(1888)歿、72才。
出典:(株)思文閣
大久保彦左衛門【おおくぼ-ひこざえもん】
1560-1639織豊-江戸時代前期の武士。
永禄(えいろく)3年生まれ。大久保忠員(ただかず)の8男。徳川家康のもとでおおくの合戦にしたがう。徳川秀忠,家光の3代につかえ,戦国生き残りの勇士として旗本中で重きをなした。反骨と奇行で知られ,講談では「天下の御意見番」としてしたしまれた。寛永16年2月1日死去。80歳。三河(愛知県)出身。名は忠雄,忠教(ただたか)。通称は別に平助。著作に「三河物語」。
【格言など】御知行下されずとても,御主様に御不足に思い申すな。過去の定業なり(「三河物語」)
出典:講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
大久保忠教【おおくぼ-ただたか】
⇒大久保彦左衛門(おおくぼ-ひこざえもん)
政治に絡んで嫌疑をかけられたり、不遇な方も多いですね。
幼少の頃に父親が語っていたところによると大久保彦左衛門の末裔らしいですが、家系図もないので父の思い込みの可能性も否定できません。
皆さんのルーツや同じ苗字で活躍されている方なども調べてみると新しい発見があるかもしれませんね。
面白い発見がありましたら、教えていただければ嬉しいです。
ただ、手元に家系図があるという訳ではないので、「大久保」という姓の人をkotobank.jpというサイトで調べてみました。
以下はその抜粋。(長いです。
大久保長安【おおくぼ・ながやす】
生年: 天文14 (1545)
没年: 慶長18.4.25 (1613.6.13)
江戸前期の奉行,代官頭。通称藤十郎,十兵衛,慶長8(1603)年石見守叙任。武田信玄に仕えた猿楽師大蔵大夫金春七郎喜然の次男に生まれ,信玄に登用され土屋直村から土屋姓を授かり,財政や農村支配に当たる。天正10(1582)年武田氏滅亡ののち徳川家康に用いられ,大久保忠隣の庇護を受けて大久保十兵衛と改称。家康の関東入部後代官頭として武蔵国八王子に陣屋を構え,伊奈忠次と並んで直轄地支配,知行割,検地などに活躍した。関ケ原の戦では秀忠軍の先鋒として木曾路をのぼり,木曾遺臣山村良勝,千村良重らの起用を進言,木曾の森林資源と運材河川の利権を確保した。戦後直ちに石見大森銀山を支配,美濃代官として美濃一国の欠所を支配した。慶長6年彦坂元正と共に東海道,中山道の伝馬制を定め,伊奈忠次と関東諸国の検地を奉行,甲州総代官,大津町奉行となり,伏見銀座の開設にかかわり,とりわけ石見,佐渡鉱山の増産に実績を挙げた。幕府が成立すると「所務奉行」(勘定奉行的地位)につき,家康の駿府移転後もその直轄地を支配,慶長10年代に大和,美濃の国奉行を兼ねて強大な権限を持ち,駿府城再建工事,丹波篠山城,亀山城などの普請にかかわり,建築用材輸送と内陸舟運路の開発に尽力した。18年没後,生前の不正のかどで摘発され,男子は切腹,一族や下代らは処罰され,長男の舅信濃深志城主石川康長も改易された。
(大野瑞男)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保忠隣【おおくぼ・ただちか】
生年: 天文22 (1553)
没年: 寛永5.6.27 (1628.7.28)
江戸幕府創業期の重臣。大久保忠世の子として三河国上和田郷(愛知県岡崎市)に生まれる。幼名千丸,通称新十郎。永禄6(1563)年徳川家康の近習に登用され,歴戦に参加し奉行職となる。文禄2(1593)年徳川秀忠に付属して家老,翌年家督を継ぎ相模小田原6万5000石を領し,慶長5(1600)年相模守に任官,10年秀忠が将軍に就くと老中となり権勢を振るった。19年正月上洛中突如改易に処せられた。その理由は養女を山口重信に嫁がせたとき家康,秀忠に無許可の私婚によるというが,実は本多正信との不和が原因である。不和の発端は慶長5年上田城攻撃に忠隣の家来が抜けがけの働きをし,これを正信が処罰したからといわれ,家康の後嗣に忠隣は秀忠を推し,正信は秀康を支持し対立,17年3月正信の子正純家臣の岡本大八事件を契機とする忠隣と正純の政争も原因である。この事件を裁いたのが大久保長安であり,18年の大久保長安事件に関連して馬場八左衛門が忠隣の謀反を密告し,正信が取り上げて家康をそそのかしたといわれる。忠隣の謀反は無実の讒言に過ぎず,家康がこれを信じ,弁解も容れられないことから改易になった。譜代武功派の正信に対する不満が忠隣に代表され,このため本多父子の標的になったものであろう。
(大野瑞男)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保利通【おおくぼ・としみち】
1830-1878幕末-明治時代の政治家。
文政13年8月10日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。島津久光に信任され小納戸役となる。西郷隆盛,岩倉具視(ともみ)とむすんで討幕運動の中心となり,明治政府を樹立。木戸孝允(たかよし)らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争などを鎮圧。地租改正をおこない,元老院,大審院,地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。明治11年5月14日東京紀尾井(きおい)坂で石川県士族島田一良(いちろう)らに暗殺された。49歳。初名は利済。通称は正助,のち一蔵。号は甲東。
【格言など】為政清明(暗殺される朝の揮毫)
出典:講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
大久保要【おおくぼ・かなめ】
生年: 寛政10 (1798)
没年: 安政6.12.13 (1860.1.5)
幕末の土浦藩(茨城県)藩士。幼くして父母に別れ,祖父に育てられた。江戸に遊学し,帰藩ののち藩の要路に加わる。天保8(1837)年藩校郁文館が新設され館頭,嘉永3(1850)年藩主土屋寅直が大坂城代に任命され,公用人として随従。安政1(1854)年,ロシア船の大坂来航に際してはこれとの折衝に当たり去らせた。尊王派の志士とみられていて,同5年5月大坂に潜行して来た大原重徳と面談。同年8月戊午の密勅を内達され,有馬新七の訪問を受ける。幕府の嫌疑を受け,同6年10月永押込に処せられ,土浦に病没した。
(井上勲)
出典:朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
大久保忠寛【おおくぼ ただひろ】
政治家。通称金之助・三市郎・志摩守・伊勢守・右近将監・越中守、初名は忠正、号は一翁・石泉・桜園。忠向の子。江戸生。幕臣として勝海舟と共に幕政の運営にあたる。また議会制を主張した先覚者としても著名。駿府町奉行・側用取次・若年寄・静岡県知事・東京府知事・元老院議官等を歴任した。詩歌集に『桜園集』がある。明治21年(1888)歿、72才。
出典:(株)思文閣
大久保彦左衛門【おおくぼ-ひこざえもん】
1560-1639織豊-江戸時代前期の武士。
永禄(えいろく)3年生まれ。大久保忠員(ただかず)の8男。徳川家康のもとでおおくの合戦にしたがう。徳川秀忠,家光の3代につかえ,戦国生き残りの勇士として旗本中で重きをなした。反骨と奇行で知られ,講談では「天下の御意見番」としてしたしまれた。寛永16年2月1日死去。80歳。三河(愛知県)出身。名は忠雄,忠教(ただたか)。通称は別に平助。著作に「三河物語」。
【格言など】御知行下されずとても,御主様に御不足に思い申すな。過去の定業なり(「三河物語」)
出典:講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
大久保忠教【おおくぼ-ただたか】
⇒大久保彦左衛門(おおくぼ-ひこざえもん)
政治に絡んで嫌疑をかけられたり、不遇な方も多いですね。
幼少の頃に父親が語っていたところによると大久保彦左衛門の末裔らしいですが、家系図もないので父の思い込みの可能性も否定できません。
皆さんのルーツや同じ苗字で活躍されている方なども調べてみると新しい発見があるかもしれませんね。
面白い発見がありましたら、教えていただければ嬉しいです。
2010年12月23日木曜日
知り合いのくノ一さん
2010年12月21日火曜日
海外との打ち合わせ
急遽、決まった来週のサイパン行き。
仕事で行く為、事前に決めることも多いので、現地とSkypeで打ち合わせをする。
クライアントはアロハオエをBGMにゆっくりと沈む太陽を眺めながら、
トロピカルジュースを飲んでいるという。
情景が目に浮かぶようだ。
ついつい、Slow Sunset Saipanか。などと呟いてみたくなる。
お昼には、海岸線に南国特有の木々を植えて日差しを和らげたマラソン
コースを走ってきたらしい。
「暑くなってきたのでそのまま海に飛び込んでしまったよ。ハッハッハッ。」
とのこと。なんとも羨ましい状況だ。
気を抜くと反れる話を羨みながらも元に戻しつつ打ち合わせを続ける。
BGMの曲がアロハオエからノリのよいものに変わった。
曲は耳心地よく、スピーカー越しに聞こえてくる現地の言葉や雑踏と
重なり、異国情緒を書き立てる。
心なしか、話のテンポも進んできたようだ。
ただ、何か違和感があった。
ひとしきり話を終えてお互いの言葉が途切れたところでBGMがハッキリと聞こえてきた。
Stop the season in th sun~♪
心潤してくれ~♪
TUBEじゃん。
前田さんじゃん。
ってか日本は冬だし。
何か違う意味でサイパン行きが楽しみになってきました。
って、書いておいてアップするの忘れていました。(涙
仕事で行く為、事前に決めることも多いので、現地とSkypeで打ち合わせをする。
クライアントはアロハオエをBGMにゆっくりと沈む太陽を眺めながら、
トロピカルジュースを飲んでいるという。
情景が目に浮かぶようだ。
ついつい、Slow Sunset Saipanか。などと呟いてみたくなる。
お昼には、海岸線に南国特有の木々を植えて日差しを和らげたマラソン
コースを走ってきたらしい。
「暑くなってきたのでそのまま海に飛び込んでしまったよ。ハッハッハッ。」
とのこと。なんとも羨ましい状況だ。
気を抜くと反れる話を羨みながらも元に戻しつつ打ち合わせを続ける。
BGMの曲がアロハオエからノリのよいものに変わった。
曲は耳心地よく、スピーカー越しに聞こえてくる現地の言葉や雑踏と
重なり、異国情緒を書き立てる。
心なしか、話のテンポも進んできたようだ。
ただ、何か違和感があった。
ひとしきり話を終えてお互いの言葉が途切れたところでBGMがハッキリと聞こえてきた。
Stop the season in th sun~♪
心潤してくれ~♪
TUBEじゃん。
前田さんじゃん。
ってか日本は冬だし。
何か違う意味でサイパン行きが楽しみになってきました。
って、書いておいてアップするの忘れていました。(涙
登録:
コメント (Atom)